岩井「当プロジェクトは、面白いプロジェクトを通じて、アートマネジメントができる人材の育成につなげられるのではないかとの考えで進めました。そのため、(個々のプロジェクトが前面に出て)人材育成が見えなくなったり、また浮上したりすることを繰り返した3年間でした。アートマネジメントの視点から見ると、秋田市では『アートと社会の接点を担うもの』として捉え、ライターや編集者の立ち位置からライターの育成を行いました。また、『アートとアート以外の接点』との考え方も取り入れました。男鹿では、生活との兼ね合いや直面している地域問題、信仰などの視点から、アートを地域に取り入れることの難しさなどが分かりました。五城目では、アートマネジメントを『芸術を育む土壌を作ること』としました。町を好きになってほしいとの思いは押し付けであるとの気付きや、アートが好きだからやっているだけだという人が町に入ることで、人々の理解が高まるはずとの考えにいたりました。横手では、アートマネジメントのアナロジーのようなものとして『地域醸造家』という考え方を取り入れました。これらから、地域にどのような問題意識が生まれたのか、何かが変わったのか、新しい展望が見えてきたのかについて話したいと思います。初年度は客観的な視点で関わり、2年目からは企画にも関わった千葉さんは、3年間を通して、それぞれの地域の気づきや成長、変化などをどのように見ていますか?」
千葉「当初、取材で関わらせてもらった中で特に印象的だったのは、農民彫刻家の皆川嘉左ヱ門さんの活動でした。当プロジェクトは3年間で多くの取り組みを行いましたが、その土地に住んで、粛々と創作活動をしている人の持つ迫力にはかなわないのだと思いました。芸術価値創造拠点として取り組んだプロジェクトは、これから根付いていくプロセスの最初の段階なのだろうとの印象です」
岩井「五城目は、考え方も含めいろいろな変化があったと思いますが、アートマネジメントの観点から人材はどのように育ちましたか?」
柳澤「私は何か企画があったとき、すぐに相談できる人が近くにいたことに恵まれました。大学の先生からもアドバイスが得られましたし、一人で主導したわけではありません。受講者は大学生が中心で町民は少なかったのですが、そもそも住民のみんながアート好きな町は可能なのだろうかということを考えました。みんながみんな、町のことを考えている町は住みづらいはず。『アートが好きだ』とだけ言っている人を眺めている方が、町に住む人たちには心地いい。そのように楽しむ人が暮らしていけるようになるかどうかが勝負だと思っています。秋田でどのように芸術を発信するのかを考えたとき、産業がしっかりしていて、観光で成り立っている金沢や弘前のような地域とは状況が違います。秋田で芸術らしい何かをどう位置付けるのか、どのように関わっていくのかについて、経済を含めて育めるような仕組みを考えなければならないですが、それは決して住民みんなが参加することではないように思っています」
岩井「トークイベント(着想の交換)でも話に出ましたが、根拠が全然違うところでも、結果的にクロスする点が少なからずありました。人が動くきっかけは、社会活動の中にも地域のアートの中にもあります。では、社会活動自体をアートと言っていいのか、アートを社会活動として捉えるのか、実はそういう分け方も意味のないことなのか…」
柳澤「小豆島のアートプロジェクトでは、アート活動と社会活動の接点を持たせるロジックを作って、行政から福祉の予算をアートに導いている事例があります。しかし、クロスする点があるからこそ分断した方がいいと思います。クロスする接点でつながった人々が分かれて、アート活動をする人が新たに出てきてもいい。またそこから分かれて、集まって…分野を横断してつながる場所が大事だと思います。関心を持った人々だけが自ら楽しむ姿を、周りの人々は傍観しているだけでいいということが次に起きてほしいことです」
岩井「横手では、地域の皆さんは当プロジェクトをアートと認識していたのでしょうか。それとも『地域醸造家』という人々が生まれる場所として考えていたのでしょうか」
永沢「情報発信や広報に手が回らなかったため、地元の皆さんが、どういうところから情報を得て、どれぐらいの関心を持ってくれたのかはよく分からないです。『何かをやっているな』と思ってもらうだけでも、かなり大変なことだと思い知らされました。アートや文化的なことに取り組むのにはエネルギーを要しますが、そのエネルギーを発信するのが1番大変(関連記事)。地元では、美術的感覚というよりも農民芸術家の感覚に近く、『何かやっていたらできちゃった』という感覚でものづくりをしている人の方が多いかもしれません。そういう人々がアートマネジメントや芸術祭を地域でやろうとしたとき、普段やっていることなのに『特別なことなのか』と思われてしまうことが分かりました。私たちがやってきたことを『特別なこと』として発信できるまでの影響力はなかったです。仮にできたとしても、その人たちの日常的な考え方をちょっとでもいじることができるのか、そういうことに自分が関わることができるのかという不安もありました」
岩井「『アート』という言葉に対する拒否反応はもちろんあって、地域の中で受け入れられるアートに代わる言葉があったらいいという話も出ていました。永沢さんが『地域醸造家』という概念を作ったのは、『アート』という言葉を使いたくなかったからですか?」
永沢「地元では、アートという言葉は日常生活ではほとんど聞きません。学生時代に過ごした秋田市では、芸術や美術などの言葉を市民が理解しているという土壌がありました。それを地元に持ち帰ったとき、意識的な部分から違うと思いました。地元では、アートをネガティブに捉えられてしまうことがあります。『変なことをしている』と見られているようにも思います。地域によって受け取られ方の違いがあると感じました。『醸造家』は、『発酵』という言葉を使いたかったので使いました」
岩井「アートに関わっている人は、ふざけたことをしている人や難しいことを言う人たちが多いと思われている節がありますね。そのことが露呈したのが、秋田市で実施したいくつかのプロジェクトでした。アートと別の要素の接点を見出そうとすると、アート側の言及が強くなってしまい、結局相手が逃げてしまう状況にならざるを得ないことがありました」
蛭間「『今まで楽しいものと感じていたアートに距離を感じた』という意見もありました。『アートとは?』『現代美術とは?』という問いに答えはなく、誰にも定義できないことに対し、私たちは何かしらを決めて物事を進めていきます。企画する側も定義しきれず、共有しないまま物事を進めてしまうため、アートが身近ではない人を困らせてしまうことがあるようです。外部の人を巻き込むとき、『アートはこういうもの』と納得してもらえる土台を作らないといけないと思いました」
岩井「そもそもアートがあまり好きじゃない人に押し付けるのは問題かと思いますが、アートの力やアーティストの活動は、地域に新しい見方を作り出せることは実証されているかと思います。男鹿ではアーティストを招いて新作を作ってもらいました。男鹿の人々と一緒に作った作品は、猿田さんや地域にとってどういう影響を与えるものになったと考えますか?」
猿田「芸術との意識をあまり持たずに参加してもらいたかったため、男鹿でも芸術という言葉をあまり使いませんでした。人々が関わりやすいようフィールドワークを行いました。大学の教員を含め、まずは男鹿に来てもらい、そこでみんなが何をしたいのかを考えてもらいたかったのです。アートをやるというよりも、男鹿に来て、男鹿を感じてもらって、何かやりたいと思ったらやればいいと。そこで何も生まれなかったら、それはそれで一つの答えかと思います。短期間で高いクオリティーの影絵の物語ができて、公演ができましたし、メディアの取材を受けるなどの反響もありました。このプロジェクトを始める前から、男鹿半島にはアートというものが存在しています。私はアートを『現象』だと捉えています。なまはげの面も60集落ごとに作った結果が現象として残り、人々の姿勢なども含めて存在するものが、現象としてのアート。今回の影絵も現象で、これに対する評価は良かったと思います。プロジェクトに関わった人にとっては充実した内容だったとは思いますが、私がこのプロジェクトを通じて地域の問題を解決しようとしたことに関しては、まだ解決されていません。これからなのかなと思っています」
岩井「作為的なものを排して、そこに成り立ったものが猿田さんにとってのアート。そもそも課題を解決するためのプロジェクトだったのでしょうか。それはアートの力で解決できると思いますか?」
猿田「最初はそう思って始めましたが、やっているうちにこれは違うのだと感じました。解決はできないのかもしれないなと」
岩井「課題の解決は現象的なアートではアプローチできないはずですが、折り合いはどのように付けましたか?」
猿田「このプロジェクトでは、折り合いを付けなくていいと考えるようになっていきました。『これはアートマネジメント人材育成事業なのだから、こういうことをしなければならない』というように考え方をシフトさせました。人材育成事業としての『人材』は、私たち自身が成長し、勉強になったと思います」
岩井「アートと意識せず、しかし、クリエーティブな作業をすることができるのだとすれば、当大学もそういう表に出ないアートの形を伝えていくこともあり得ます。大学院には複合芸術研究科を設けています(関連記事)が、『複合芸術』自体が定義されていません。どのように社会に広がっていくのか、私たちも半信半疑ではありますが、概念を使い続けていくことも必要なのではないかと考えています。柳澤さんや永沢さんは、文化を外にどうやって伝えるのかを考えるよりも、面白いと思う人が愛(め)でることで自然に広がっていくのがいいとの考え方ですね。それこそが本物の価値だという人が五城目や横手から出てくれば」
柳澤「永沢さんの話を聞いて感じたのは、横手で永沢さんを支える仲間が必要だということ。平日の夜、仕事が終わった後に地元で芸術のことを語り合える人や相談できる人。五城目のプロジェクトでは、地元紙の折り込みチラシを2回使いました。約3000世帯に配布しましたが、ほとんど参加者が集まらなかったことは費用対効果を考えるとすごく悔しい。しかし、それを配ることにより理解が広がっているとも思えます。私たちが『鍋っこ遠足』をしていることを伝える。そして、『あいつらが何かやっている』と笑いながら見る人が、見ているうちに気付いてくれることもあるはず。それによって今年度は高校生も参加してくれましたので、あきらめないことですね。言い続けること。苦しかったらやらなくてもいい。プロジェクトを通じて、さまざまな人とのつながりが増えました。今は私たちなりの戦い方を探しています。理想的には、例えば、地元のギャラリーから大学にお金を持ってきて『これをやりなさい』というのがかっこいい。そして卒業生が稼げるような」
千葉「永沢さんは広報に大変苦労されたとのことですが、1年目なので当たり前のことです。昨日開いたトークイベント(関連記事)は、社会活動家の話をアート分野の皆さんにも聞いてもらいたいと思い提案したものです。その人は月1回の飲酒交流会を開いているのですが、これを毎月続けて約10年、120回以上開いています。社会活動に対する一般の拒絶反応は、アートどころのものではないはずですよ(笑)。そういう中で、広報などに多少の物量をかけたところで人を集めることはできません。今月の飲酒交流会ではSNSの告知を通じて集まった申込者がたった1人だったそうですが、私は必ず人が集まると思って見ていました。結果20人が参加して開かれました。続けていると自然にファンが増えていくんです。継続することで地域に浸透していくものだと思います。その人がやったことはというと、社会活動の場を作ったのではなく『人が集まる場』を作っただけ。当プロジェクトでも、男鹿・五城目・横手に『場』ができて、秋田にも『秋田芸術新聞編集部』という『場』を作ったわけです。私たちは『場』をどのように展開していくのかというところに立っているのでは」
永沢「『こういうことについて考えたいけれど、まずは飲もう』というように集まることができる場所は欲しいです。そんな状況や場所を仕掛けるのも、日常生活を送っていると時間をさけずに大変ですが、そういう機会は本当に欲しい。だから、『続けたいから続ける』と自分一人で思っているよりも、自然現象に近い感じでふつふつと湧き上がるような方がいいですね」
岩井「群馬県前橋市の美術館の徒歩5分圏内にはアート関連スペースが5カ所ぐらいあるそうです(関連記事)。展覧会の後などに開く懇親会の2次会の会場としてそれらのスペースを使うことで、美術館とリンクしているとのこと。そうすることで、自然に認知され、人が集まり、いろんなことが起きてくるという、非常に頭のいい使い方だと思いました。各拠点で使ったスペースなどの今後の使い方はキーになっていくかもしれません。常に必要とされる、使われていくという環境ができ上がればいいと思います。横手では十文字町のゲストハウスを拠点にしましたが、運営する阿部さんは、当プロジェクトで使われたことをどのように考えていますか?」
阿部円香「東京から帰郷して、ホステル&バー『CAMOSIBA(カモシバ)』を経営しています(関連記事)。私自身はアートを専門に勉強していたわけではありませんが、興味がある方だとは思っています。帰郷してからは、そういうものに触れる機会が少ないように思っていたところ、当プロジェクトに集まってくれた人々を見ていると、場や空間があることの重要性はもちろん、同じ志や目標を持って集まっていることが大切だと思いました。(当プロジェクトのことは)あまり広まっていないのかもしれませんが、『見られていないようで、見ている人はいっぱいいる』と感じました。こういう場を複数生み出していければ、自ずと大きな流れにつながるのではないかとの確信に変わった機会でもありました」
岩井「場があると人が集まるだけではなく、たとえ人は不在でも人の視線が集まり、積み重なっていくことはありますね。五城目では、小熊さんが運営するアートギャラリーが場として関わりましたが、どのような意味を持ったでしょう?」
小熊隆博「2016年に地元の五城目町にUターンして、古い建物を改修したギャラリー『ものかたり』を運営しています。当初は『地元の五城目町をどうやって異化するか?』のようなことを考えていました。見慣れた地元を見慣れないものとして、新しいものを取り入れるためにはどんな視点が必要かということを考えるための装置として始めたギャラリーです。中身は運営しながら考えていますが、千葉さんの話にあった『地域とアートの接点』があるとしたら、地域のどのような文脈に沿って言葉を置き換えられるのかということや、猿田さんの話にあった社会や地域の中に当たり前のようにある『現象』をどうやってアートという言語で発信していくのかというような、翻訳者のような仕事があるだろうとの見込みを持っています。もっとも、私がすぐ動けるわけではなかったので、とりあえずは施設を持ちながら、白紙で投げ込まれた球を自分がやりたい形にして投げ返そうと考えています。当プロジェクトについては『すごい球が入ってきたな』と思いました(笑)。柳澤さんは強い知的好奇心で、仲間と一緒に町のさまざまなジャンルのことを貪欲に吸収してくれていました。プロジェクトでは、大学の先生と一緒に考える時間をもっと持ちたかったです。私は京都造形芸術大学でアートマネジメントを学びましたが、当時は、アートと社会をどうつなげるのかという視点で勉強していました。しかし、社会に出てからは『これは無理だ』と(笑)。自分なりにどのように構築していけばいいのかについて考える中にありますが、これから学んでいく大学院生が、どのようなプレーヤーになっていくのか興味があります」
岩井「当プロジェクトには、いろんなタイプの人たちが関わりました。地域アドバイザーが必ずしも地元出身というわけでもなく、地元の人々や当大学の教員、学生、ローカルメディアなどがからみ合って進められました。教員の立ち位置から、石倉さんの話を聞かせてください」
石倉敏明「当初、当プロジェクトには『地域課題に応答する』という課題もありました。大学側のスタッフとして地域の課題を発見して、それを解決するという思考があったと思います。大学で培ってきたそれぞれの専門性が地域で役立つのではないかという前提がありました。しかし、やっているうちに『何か違うのではないか?』『学んでいるのはこちらの方ではないか』ということが分かってきました。その土地には培ってきた知恵があり、その中に造形芸術や芸能、広い意味でたくさんのアートが眠っています。そこに光を当てて、翻訳することによって、私たちが大学でやっていることも広がっていくのだということを学びました。私にとっては学びの場として、3年間面白い体験ができました。地域アドバイザーはアドバイスをしているわけではなく、むしろ主役、一つのメディアとして機能していたのではないかと思います。米が酒に変わるように質を変換させたり、そのプロセスに関わる翻訳者としてマネジメントに取り組んだという意味では、このプロジェクトは立派にマネジメントのできる人材を育て上げたように思います。私たちが育てたというよりも、もともと素質のあった人々が秋田にたくさんいて、それに対して、アートの概念を拡張できることを確信を持って学ばせてもらうことができました。私は人類学者にとして、なまはげのようなものが世界のアートのど真ん中にあるように思いますが、現代美術やアートの世界では、なまはげが視界にあっても、真ん中は美術館です。私はそこをつなげたいとの思いで人類芸術学を研究しています(関連記事)。その両方を行ったり来たりする目的意識をみなさんと共有できたし、秋田はまだまだできることがあると感じています。外国人のアーティストを男鹿や五城目、横手に連れて行くと、みんなが素晴らしいと言う。大学自体の使命や、これからやらなければならないことを自覚させてもらい、学ばせてもらった3年間でした」
岩井「当プロジェクトのイベントなどにも欠かさず参加してくれた秋田市の奈良さん、参加者の代表として話を聞かせてください」
奈良宏周(ひろのり)「普段はアート作品を見る側ですが、今回は横手のプロジェクトや秋田のトークイベントなどに参加しました。横手のプロジェクトでは作品も制作し、いろんなことを学ばせてもらいました。展示する側の立場から、どういう視点で取り組み、どのような目線で作品を作ればいいのか、キュレーション的なことを学ぶことができた経験は大きかったです。トークイベントで千葉さんが話していた『新しい取り組みが出ては消え…という繰り返しを嫌というほど見てきた』という言葉が、強く心に残っています(関連記事)。こういう場はぜひ継続してもらいたいです。東京の編集者を招いたトークイベント(関連記事)では、アート関連記事のアクセス数が少ないとの話を聞きました。アートに興味がない人が一般的で、興味を持ってアートをよく見る私はもしかしたら変な人かもしれません(笑)。このプロジェクトに関わって、見る側からも発信して、こういう面白さがあるんだということを伝えていければと思いました」
岩井「まさに奈良さんのような方が触媒になって、私たちのプロジェクトと一般の人を結び付けていただいているんですね。後続のプロジェクトも、ここで培ったネットワークやみなさんとの関係を大切にしながら、いい形で活用できるように取り組んでいければと思います」