-これまでの記事内容について教えてください
三宅「工業デザインや大学の広報戦略を扱った記事のほか、学長との対談や就職関連情報、秋田ゆかりの芸能人へのインタビューなどもありました。大学内の床屋さんが閉店することを扱った最近の記事は、本紙の掲載をきっかけに、一般紙やテレビニュースでも報じる反響もありました。取材対象の基準については、必ずしも大学内の出来事に限るのではなく、秋田大学の『学生』を軸に置いています」
-掲載する記事はどのようにして決めますか?
三宅「記事内容は毎回、大きな悩みの一つですが… あらかじめ各部員が持ち寄った提案をもとに、次号の取材や記事内容をどうするかなど編集会議で決めます。でも、最終的な内容は、わたしの独断と偏見でだいぶ変わることもあります。そういう『ジャイアン』のようなところは、先代主筆の市井に似ちゃったところ(笑)。編集会議では、わたしが怒ってあげないと場が締まらないんですよ…」
-報道局は何人で運営してるんですか?
三宅「以前は5人ほどでしたが、今は4年生から1年生まで各学年2~3人ずつ計10人で運営しています。男女比は6対4で女性が1人多い。『記者』のほか、副リーダー的存在の『編集デスク』や高校で写真部だった『カメラマン』もいます」
-充実していますね…メンバーは勧誘したんですか?
三宅「最初は勧誘もしていたのですが…こちらからお願いしてやってもらうのは違うのではないか?と思うようになりました。新聞記者で一番大事なのは行動力じゃないですか?すぐにパッと動ける行動力のある人。自ら『やりたい!』という人じゃないと務まらないと思うんです。だから、飛び込んでくるのを待っています。そうやって集まったメンバーだからいいんだと思っています。そして、必ず集まってくる。自然と…」
-ところで…部室はないんですね?
三宅「そうなんですよ。だから、編集会議は学内のカフェで開いています。本当はファクスなどの設備は必要だし、何より編集作業のプロセスなどを後輩に伝えていく場として、部室はどうしても必要。高校にも配布する『AUP』は大学のいい宣伝になっているし、これだけ頑張っているんだから、大学施設内の空いている一室を貸してもらいたい!です(笑)」
-三宅さんと報道局との出会いについて教えてください
三宅「直接のきっかけは、『AUP』の別冊として昨年9月に発行した雑誌『kulo』の編集者として先輩に誘われたこと。当時3年生だったわたしは、就職活動で東京や仙台を往復しながらの中だったけど、このチャンスを逃したらいけないと思いました。もともと文章を書くのが好きで、新聞記者になりたいとの思いもありました。だから、あと先考えずに『もちろんやります!』って(笑)」
-初めての編集作業はどうでしたか?
三宅「楽しくて楽しくて…。毎日、早朝4時とかまでやってた(笑)」
-その後、「AUP」の編集にも携わるようになった
三宅「そうですね。本当は事実を淡々と書かなければならない新聞記事よりも、人の話を聞いて感動した話を書くほうが好きなんですが…。でも、記事を書くようになってからは、クルマに乗っている間もずっと外を見てるようになりました。『なんか面白いことないかな?』って。報道局の後輩にも、常にアンテナを張っておくようにと話しています」
-三宅さんが「主筆」になった経緯は?
三宅「卒業を控えた市井から、『三宅しかいない!主筆をやってみないか』と声をかけられたことです」
-「主筆」は指名制なんですか?
三宅「多分(笑)。わたしも活発な後輩を次の主筆に指名するつもりです」
-主筆になってから三宅さんの意識で変わったところはありますか?
三宅「もともと『AUP』は、市井が専攻のインダストリアルデザインの知識などを生かして創刊したものです。『秋田が嫌いだ』という北海道出身の市井でしたが、『自分は秋田で何もやっていないじゃないか』という自問から『AUP』を創刊したとも聞いています。そのため、『市井あってのAUP』という雰囲気が報道局の内外にあったと思います。そのような環境の中で不安もありましたが、今は自分らしさが出せればいいと思っています」
-具体的には?
三宅「わたしが主筆を託されたとき、市井からは『遺言』も預かってるんです(笑)。それは、『新聞の発行ができなくなったり、報道局がなくなったりすることもあるかもしれないけど、たとえ壁新聞でもいいから残してくれ。あとは三宅の好きなことをやっていい』と。だから、わたしはわたしでいいのかなって。デザイン力などでは市井に及ばないけど、わたしには伝えることへの強い思いがある。女の子らしさではないけど、いろんな人との出会いと取材を通じて感じた感情的な部分も『AUP』に反映されていると思います。例え取材や文章が下手だとしても、読んでくれた人に『秋田っていいな』と思ってもらえるものであれればいいんだと」
-記事には大学当局の校正などはありますか?
三宅「当初は任意団体として発足した『報道局』ですが、今は大学の公認サークルとして活動しています。大学には新聞の印刷費用だけは出してもらってる関係もあって、発行前の校正は受けています。でも、文章の言い回しや学生らしさが生きる表現など、『報道局』として譲れない部分の修正を求められたときは、『そこはこれでいい!』って修正しないこともあります(笑)」
-その後、市井さんと話すことは?
三宅「市井は現在、九州大学の大学院に通っていますが、今でもよく電話で相談にのってもらっています。なんだかんだ言っても、市井もやっぱり秋田が好きなんで(笑)」
-「報道局」の活動は新聞発行だけではないようですね
三宅「これまでには仙台から講師を招いた講演会を開いたりもしました。秋田はつまんないとかブーブー言ってるだけじゃなくて、自ら動くこと。報道局は、大学祭の実行にも積極的にかかわっています。大学祭で昨年から開催してる『ミスコン』も、『学生が盛り上がるのは大学祭』と考えた市井の発案からですが、単にかわいい女の子を選別したくて開いているわけではありません。高校生にはできないことでも、大学生の活動なら企業が協力してくれることもある。学生が楽しみながら、大学外部との関係を持つことができます。おかげで、わたしも大人になることができたと思っています」
-卒業後はどうしますか?
三宅「東京の会社に就職が決まっていますが、将来は秋田に戻りたいと本気で思ってます」
-三宅さんのご出身はどちらですか?
三宅「仙台です。大学で初めて秋田に来ました」
-なぜ、それほどまでに秋田を?
三宅「先輩の紹介で知り合った人との出会いから、秋田のことが大好きになったからです。 30代半ばのその人は、秋田の街を活性化するための活動に熱心に取り組んでいて、学生の活動にも理解を示してくれる人です。わたしが『東京の会社に就職しても、いつかは秋田に戻りたい』と話すと、『秋田に戻ることを目標にしないでほしい』と言うような人で、『これからわたしがどういう大人になっていくか』を考えるきっかけにもなりました。そんな熱い思いを持つ大人に秋田で出会えて良かったし、ここで人生が楽しくなりました」
-卒業までにやりたいことはありますか?
三宅「新聞では、大学がある手形地区の飲み屋さんなど地域のことも扱ってみたいと思っています。あと、具体的にはまだこれからですが、できれば来年の3月までに『kulo』を発行したい。そのための内容もずっと考えてきました。昨年、大手コンビニとの提携でコンビニ向けスイーツ商品も開発しましたが、それには『準ミス秋田大』がかかわったこともあって、今年の『ミスコン』出場者からも商品開発に参加したいとの声を聞きます。やはりモノを作ることには、関心が集まりやすいんだと思いました」
-卒業前に恐縮ですが…三宅さんから後輩への「遺言」は?
三宅「世代が変われば『色』は変わると思うし、それでいいと思う。ただ、忘れてほしくないのは、『報道局』発足当時の市井の思い。それを語り継ぎながら、秋田のいいところを伝える『報道局』として編集に携わる後輩の皆さんにも成長してもらえればうれしいです」
-ありがとうございました
取材当日、風邪のため体調不良だった三宅さんは、その素振りも見せずにインタビューに応じてくれたことを後日談として知った。後輩から、「かき分けた藪(やぶ)の中からヘビが出てきても、気にせず前に突き進むような開拓精神旺盛な人」と評される三宅さん。「いつかやっぱり秋田に帰ってくる気がするけど、それまでに日本中でも世界中でも回っていろいろな経験をしてきたい」と話す。卒業までに残された半年、三宅さんが秋田に残すであろう足跡を見守りたい。
「報道局に部室をください!」-秋田大学新聞発行の学生サークルが訴え(秋田経済新聞) AUP(秋田大学報道局)ブログ 秋田大学