入試難易度が東京大学に比肩することなどで知られる秋田市雄和の国際教養大学。授業は全て英語で行われ、1年間の海外留学も課せられる独自のカリキュラムから、全国の意欲ある高校生の進学先に選ばれる。学生の多くが県外出身者で占められることもあり、首都圏の大企業などに就職する卒業生が多い中、秋田市内に残った男性がいる。熊本県出身の飯牟礼克年(いいむれかつとし)さんだ。大学卒業後、県内の新聞社に入社。社会部・政治経済部の記者として活躍後、2020年12月に退社した。しかし、「秋田に骨を埋(うず)めるつもりだ」という飯牟礼さんに話を聞いた。
――飯牟礼さんは、熊本県の出身ですね
飯牟礼 高校までは熊本市で過ごしました。2012(平成24)年、国際教養大学への進学をきっかけに秋田市に来ました。入学後は、それまで大学になかったラグビー部の立ち上げに加わったり、ルーマニアの大学に留学したり、中国や韓国、ギリシャ、セルビアなど10カ国以上を回ったり、充実した学生生活を過ごすことができました。
秋田の第一印象は、大学や秋田空港のある雄和地区が市の南端ということもあって「ずいぶん田舎だなぁ」というものでした。タクシーの運転手さんの言っていることも(方言のため)分からなかった(笑)。大学の周囲は森ばかりで、公共交通機関も充実しているとは言えず、正直なところ大学を卒業したら、秋田を出ようと思っていました。
――なぜ、秋田に残ろうと?
飯牟礼 大学の図書館は勉強のための環境が整っており、24時間使えることから、朝方まで勉強していることも少なくなかったのですが、図書館の大きな窓から見える夜明けの景色がとてもきれいなんですよ。そして、外に出ると空気がおいしい。また、大学から下浜(海岸)まで15キロほどのコースでサイクリングを楽しんでいたのですが、森の香りを感じられたり、集落の風景に静寂な神社、杉の大木があったり、日本海に沈む夕日も美しかったり…。勉強が大変だとか、将来はどうしようだとか悩んでいるときに、日常で感じられる自然や風景が私の背中を押してくれるような感覚がありました。そうしているうちに、秋田の自然に愛着を感じるようになっていきました。さらに、県内のモニターツアーに参加した際に受けた当地の人々のもてなしや、県内各地で出会った皆さんの温かさにもひかれていきました。
――美しい自然や温かいもてなしは、熊本にもあるのでは?
飯牟礼 もちろん、熊本にも素晴らしい自然や温かな人々は多いです。秋田では、それだけではなく、同時に危機感のようなものも感じたのです。高齢化が進み、空き家も目立つ地域を見ているうちに、おせっかいかもしれないけれど、私を優しく受け入れ、元気をくれた秋田の皆さんのために、何か恩返しができないだろうかとの思いが強くなっていったんです。
――それで新聞記者に?
飯牟礼 大学では、海外や全国のことばかり学んでいました。しかし、地域の皆さんと交流を続けているうちに、足元の社会、秋田について、私は何も知らないんだということに気づきました。世界には、さまざまな課題がありますが、この地域にも多くの課題があります。国際教養大学の授業は英語で行われますが、一般的な大学と異なり専攻がありません。政治、地理、哲学、日本文化など、幅広い分野の学問を通じて、さまざまなことに好奇心を持てるようになりました。同時に学びを楽しむ技術のようなものを身に付けることもできました。
そこで、地域を回りながら地域社会の勉強ができ、地元の皆さんの声に耳を傾けて情報の発信ができる新聞社を志望しました。2017(平成29)年 、秋田魁新報社に入社し、記者になりました。
最初に配属されたのは、社会部です。秋田に恩返しができればとの思いから新聞記者を志し、過疎化が進む集落の問題などは知っているつもりでしたが、記者になって初めて触れた現実も多かったです。これは、秋田だからということではありませんが、平和でのどかに感じられる地域でも、日常的に起こる事件や事故は少なくありません。中でも、児童虐待の現実に触れたときは辛かったですし、苦しんでいる人や困っている人が多い現実を目の当たりにしました。
次に配属された政治経済部では、経済担当として秋田駅前の再開発や都市計画、ユニークな取り組みを行う県内企業などを取材しました。まちは再開発により整備されていく一方、にぎわいにもの足りなさを感じました。また、革新的な経営者がいる一方で、経営が成り立たないほど人手不足に苦慮する企業の現状を知ることもできました。
ところで、社会部にいた2年目、国際教養大学の客員研究員を兼務しました。アジア地域研究連携機構の事業で、外国人技能実習制度の現状や課題について県内とベトナムで調査しました。ベトナムでは、まちなかの公園や広場に集って目を輝かせながら夢を語ったり、食事を楽しんだりする多くの若者と出会いました。日本よりもずっと低い賃金水準のベトナムで、エネルギーに満ちた人々であふれる街の様子から、特に若者がいることで初めて、地域に活気が生まれるのだと感じました。同時に「豊かさとは何なのか」ということを考えるようにもなりました。
――なぜ新聞記者を辞めたのですか?
飯牟礼 入社4年目で内勤の整理部勤務となったとき、熊本に帰ろうかと気持ちが揺れ動いたことがあったんです。取材した人々の声を伝える報道の仕事には、もちろん大きな意義を感じながら働いていましたが、もっと自分自身を使って、直接的に社会に働きかけたいとの思いが強くなっていました。
これは秋田経済新聞の記事を追ったのですが(笑)、ウェブ制作会社が運営するオフィスビルを取材する際、同社の社長を前にしながらトイレを我慢できなくなってしまい、その場で10分も待たせてしまったんです。でも、これをきっかけに、社長が私のことをよく覚えてくれたんです。きっと「運」が付いたんだと思います(笑)。私なりの地域への貢献のあり方を考えたとき、その社長からは、いろいろなアドバイスをいただきました。そして、若いうちにチャレンジすることが大事なのだと、これからの身の振り方に迷う私の背中を押してくれました。2020年12月に新聞社を退社しました。
――退社後に、結婚されたとか。
飯牟礼 2月末、北秋田市出身の大学の同級生と入籍しました。これで身も心も秋田人として、この地で生きていくとの決意を新たにしたところです。
――飯牟礼さんなりの地域への貢献とはなんでしょう?
飯牟礼 私は起業家タイプではありませんので、政治の世界に身を置きたいと考えています。例えば、秋田市内を見渡すと、雄和・河辺地区のみならず、市の中央地区ですら空き家が増えているのが現状です。市の人口が20万人台にまで減ったら、もはや未来が見えなくなりかねません。そして、私は人口が減ったことを報じるのではなく、50年後、100年後の未来を見据えた社会づくりに取り組んでいきたいんです。中でも、新聞記者時代に感じた、若者のポテンシャルを生かせるまちづくりに取り組みたいと考えています。
国際教養大学の学生のほとんどが県外出身者です。そして、多くの学生は、卒業後には首都圏などに出て行ってしまいます。地方=秋田という選択肢が、学生に十分に提示できていないからです。技術革新により、首都圏などとの物理的な距離は縮まってきていますし、近年は、秋田の魅力に気が付き、秋田に残る卒業生も現れています。また、国際教養大学には、秋田の夏祭りの参加団体「竿燈(かんとう)会」があり、県外に出た卒業生も開催期間には秋田に戻ってきてくれます。このような関係人口や交流人口を築きながら、人のつながりを広げることも大切です。
故郷の熊本は、2016(平成28)年4月の熊本地震に見舞われました。祖母の家は半壊し、多くの高齢者が長い避難生活を余儀なくされたのを見ています。そこでは、地域との関わりをうまく持てない高齢者が多いことも分かりました。若者と連携し、世代を超えた交流を通じて、人々が助け合える地域である必要性を実感しました。
私が骨を埋めるつもりの秋田が、物質的な豊かさだけではなく、人がつながり合い、心の豊かさを感じられる地域になるようにお手伝いをすることで、恩返しをしていきたいと思っています。
――ありがとうございました。