提供:自由民主党秋田県支部連合会 制作:秋田経済新聞編集部
10月4日に発足した岸田新内閣で復興副大臣に就任した自民党の衆議院議員・冨樫(とがし)博之氏。秋田県議会議長を経て、国会では、衆議院経済産業委員会理事、衆議院総務委員会理事、東日本大震災復興特別委員会理事などを歴任し、今回の組閣により復興庁の副大臣として、2016(平成28)年に就任した総務大臣政務官に続き2度目の入閣を果たした。震災復興の現状と郷里への思いと取り組みについて聞いた。
―副大臣就任、おめでとうございます
ありがとうございます。地震・津波災害からの復興や海外情報発信、宮城復興局に関わる業務を担当します。2011(平成23)年3月、東日本大震災の発生当時は秋田県議会議長でしたが、その後、衆議院議員として東日本大震災復興特別委員会に携わり、各県の被災地に何度も足を運び、被災状況や復興の進捗を見続けてきました。復興とは、公共インフラの復旧だけではなく、被災された皆さんの暮らしが、本当に望む形で元に戻った状態のはずです。全国で約4万人、秋田県内だけでも400人以上の皆さんが故郷へ戻ることができていない現状から、復興への道のりはまだ続いているものと考えています。昨年からのコロナ禍により移動しづらい状況でしたが、まずは各地へ赴き、皆さんが「心の復興」を果たすまで、「東北は一つ」との思いを持って尽力します。
―就任記念撮影で身に着けたモーニングは特別なものだとか
まさか、私が副大臣に任命されるとは思っていませんでしたので、着衣のことまで気が回っていなかったところ、私の政治の師で、防衛庁長官や農林水産大臣を務められた故・野呂田芳成先生の形見分けで頂いたモーニングがあることを思い出しました。野呂田先生の奥さまから「体形に合うかどうか」と気に掛けながら頂戴したものです。いざ、袖を通してみたところ、サイズはピッタリでした。
―生い立ちについて教えてください
1955(昭和30)年4月、秋田市大平山の麓で、農家の次男として生まれました。小学6年のときに父が急逝したため、母は、寝たきりになっていた祖父母を介護しながら、昼間は田畑を耕し、夜は保険のセールスをして、兄と私を育ててくれました。私も生活を支えなければなりませんから、昼間は母の手伝いができるよう、秋田工業高校の定時制に通いました。
―大変なご苦労をされました
生活を守るため、そうせざるを得なかったというだけのことです。当時は、苦学生も少なくありませんでした。私が通った高校の教室には40人ほどの生徒がいましたが、苦労を分かり合える仲のいい友人も多くできましたし、「人生の師」とも呼べる担任の熊谷弘先生に出会うこともできました。情熱的な先生は、私たちの兄貴分のような存在で、口癖は「友だちは一生の財産だから、大切にしろよ」。勉強と家庭の仕事の両立は大変でしたが、先生や仲間のおかげで、4年間1度も休むことなく通うことができました。教室の仲間は、1人も退学することなく卒業することができました。今でも、「友は財なり」との思いは変わりません。
高校卒業後は、母の勧めもあり、地元の秋田経済大学(現ノースアジア大学)へ進学しました。応援団に所属して団長も務めました。卒業時、ちょうど第2次オイルショックと重なった影響もあり、思うような就職先を見つけられないでいました。当時、秋田県選出の参議院議員だった野呂田先生の耳に、「元気な若者がいる」と私のことが伝わったご縁があったことから、先生の秘書として働くことを決めました。それから16年間、先生の下で勉強させていただきました。
―政治家としての経歴を教えてください
1995(平成7)年、39歳で出馬した秋田県議会議員選挙が最初です。それから5期連続18年にわたって県政に携わり、2009(平成21)年8月からは秋田県議会議長を務めました。国政へは、大震災の2年後、2012(平成24)年の衆議院議員総選挙に当選したのが最初で、現在、3期9年目になります。復興支援のみならず、県議時代から、現地に足を運んで地域の皆さんの声に耳を傾けることを大事にしてきましたが、今は、皆さんの声を国に届けて、形に結び付けることも役割です。
―形とは、具体的にどのようなものでしょう
日本海沿いの国道7号線には、人身事故を含む交通事故が多発する区間がありました。道路の幅員が狭いにもかかわらず、大型車両の交通量は多く、地元の皆さんは雨の日に傘を差して歩くのもままならないような状況でした。しかも、小中学生の通学路に指定されているわけですから、政治家としてどうこうの前に、人として「どうにかしなければならない」と考えるのが普通です。地元の皆さんからは、安全の確保を求める多くの声が寄せられていました。私も国土交通省へ幾度となく足を運び、整備へ向けたお願いをしてきた経緯があります。3月の「下浜道路」開通時には、地元の皆さんと喜び合うことができました。その後、交通量を8割ほど減らすことができ、人身事故も起きていません。
現在は、臨海十字路から秋田南バイパス2車線区間を4車線化にする計画が進められています。輸送効率化による地域産業の振興や災害時の備えにつなげるのが目的です。
公共工事というと、無駄遣いのようなイメージを持たれることもあります。しかし、東日本大震災時、秋田を通る道路、特に高速道路は、宮城県や岩手県の被災地へ支援物資の輸送などに使う代替ルートとして、重要な役割を果たしました。文字通り「命をつなぐ道路」だったわけです。杓子(しゃくし)定規に無駄と決めつけることには問題があります。地域を発展させ、豊かで安全な生活のための事業は、継続させなければなりません。
―ほかに注力されていることを教えてください
これから目指すべき社会は、カーボンニュートラル(脱酸素)を達成しながら、同時に、地域経済の発展にもつなげていくことで、持続可能な社会でなければなりません。現在、新たな産業として注目を集めているものの一つに、洋上風力発電があります。これには秋田県の持つ資源を生かすことができます。2兆円規模の巨大プロジェクトが見込まれています。地域に新たな雇用を生み、世界から見ても観光コンテンツにもなり得るものです。大きな経済効果を見込むことができるものです。
私は母の苦労を見て育ちましたので、働く女性が希望を実現しながら輝いた人生を送れるように応援したい気持ちを強く持っています。結婚から子育てまで、切れ目なく支援できる環境を整えることも大切ですし、皆さんが活躍できる場をもっと増やしていくことも大切です。先日も秋田で頑張っている女性に出会いましたが、私は政治家ですので、女性が政治を志しやすい土壌を秋田でも整えたいと思っています。ビジョンを持ち、意欲ある皆さんには、声を掛けてもらいたいですね。
子どもの教育格差が指摘される中、コロナ禍もあり、教育現場では授業のオンライン化が急速に進められています。政府は「GIGAスクール構想」(※)を前倒しで始めています。子どもたちが意欲的に学ぶことができる環境を整えることで、一人一人に合わせた指導を展開することができます。もちろん学業も大切ですが、未来を担う子どもたちには、人が苦しんでいるとき、その人の痛みを分かるような、人を思いやる気持ちを育んでもらいたいのです。
※GIGAスクール構想 小中学生1人に端末1台と高速大容量の通信ネットワークやクラウド等を整備・活用した教育
コロナ禍で、苦しい状況にある皆さんに公的な支援が届いていない可能性も指摘されています。国や自治体では、さまざまな支援策を用意していますので、行政窓口などを通じて相談し、積極的に活用してもらいたいです。
地域を守り、物事を成し遂げるためには、継続していくことが何よりも重要です。私は現在66歳ですが、青年の気持ちを持って頑張っています。体力にも自信がありますよ(笑)。
―ありがとうございました